不死鳥・植木通彦 ― 競艇界に刻まれた伝説のレーサー 生涯獲得賞金や、名レースなど

植木通彦は、競艇史に名を刻んだ偉大なレーサーであり、その生涯における数々の偉業は今も語り継がれています。 「不死鳥」と称される彼は、決してあきらめず、幾度となく復活を遂げた選手でした。 福岡県出身の彼は、1986年にデビ […]

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植木通彦は、競艇史に名を刻んだ偉大なレーサーであり、その生涯における数々の偉業は今も語り継がれています。

「不死鳥」と称される彼は、決してあきらめず、幾度となく復活を遂げた選手でした。

福岡県出身の彼は、1986年にデビューし、2007年の引退までの20年8ヶ月間、競艇界で輝かしい成果を収め、通算でSG優勝10回、賞金総額は22億6,186万円に達しました。

その生涯は挑戦と栄光、そして強い意志に貫かれたものでした。

幼少期と競艇を志したきっかけ

幼少期の植木通彦

福岡県北九州市で生まれ育った植木通彦は、幼いころから父親とともに競艇場を訪れていました。

当時は競艇選手になるつもりはなく、普通の高校生として学校生活を過ごしていたのですが、家庭の事情が彼の人生を一変させました。

高校2年生のとき、父親の建設会社が業績不振に陥り、両親が夢見ていたマイホームを手放すことに。

そんな状況を目の当たりにして、彼は両親を助けたい一心で競艇選手を目指すことを決意しました。

しかし、父親は「プロの世界は甘くない」として彼の決断に反対します。

けれども、どうしても諦められなかった彼は、当時の野球部顧問の田中靖人先生に相談します。

反対される中、最終的にはその思いの強さに共感した先生の後押しもあり、植木通彦は1回限りの挑戦と決めて競艇養成所の試験に挑戦。

一発で合格し、夢の第一歩を踏み出しました。

競艇デビューと初勝利までの道のり

植木通彦が競艇デビューを果たしたのは1986年11月21日。

同期には今村暢孝や渡邊伸太郎、齋藤勇などの強豪選手が揃っており、彼らとしのぎを削る日々が始まりました。

今村暢孝
渡邊伸太郎
齋藤勇

デビューから約1か月後の1986年12月31日、大晦日の芦屋競艇場で植木は初勝利をあげ、この勝利が彼の原点となりました。

重大事故と「不死鳥」の異名

そんな植木通彦のキャリアに大きな転機が訪れたのは、1989年1月の桐生競艇場での事故でした。

先頭を走っていた彼は転覆し、後続艇が避けきれずに接触。

プロペラで顔を切られるという大けがを負い、選手生命も危ぶまれるほどでした。

搬送先の病院では、75針もの縫合手術が必要なほどの重傷で、全治5ヶ月の診断を受けます。

事故を乗り越えて復帰を果たしたのは再び桐生でのレースでした。

トラウマを抱えながらも父親から「ここで復帰しなければ、今後も桐生で走れなくなる」と励まされ、再び桐生で出場を決意。

見事に完走し、この出来事がきっかけで「不死鳥」の異名を取るようになりました。

初のSGタイトル獲得とその後の栄光

植木通彦がSGタイトルを初めて手にしたのは、1993年の総理大臣杯(現クラシック)でした。

当時、競艇界において「モンキーターン」が話題となりつつありましたが、彼はその中でもいち早くこの技術を習得したことで注目を集めました。

モンキーターンを駆使した彼の全速力のターンは、観客に大きな驚きと興奮をもたらし、鮮やかに初のSG優勝を飾りました。

1994年には、ダービーで優勝し、賞金王の座に輝きます。その後も1995年から1997年にかけて、グランプリを含むSGレースで続々と優勝。

彼のレーススタイルや果敢なモンキーターンは、漫画『モンキーターン』に登場する榎木祐介のモデルとなったと言われています。

SGタイトルは、彼の20年間のキャリアの中で10回にのぼり、数々の大会での栄冠を手にしています。

苦渋の決断 ― フライングによる1年の出場停止と引退表明

キャリア終盤の2007年、植木は再び大きな岐路に立たされました。

年初から好調だった彼は、総理大臣杯の優勝戦でコンマ01のフライングを犯してしまいます。

このフライングにより、彼は1年間のSG出場停止となり、グランドスラムの達成や地元での賞金王決定戦が夢と消えてしまいました。

その後、フライング後も一般戦に出場し続けましたが、徐々にかつての輝きを失いつつありました。

そして、彼は引退を決意します。

2007年7月18日、現役最後のレースは通算4500走目となる鳴門での一般戦で、ラストランを見事に勝利で飾り、競艇界からの引退を発表しました。

引退後の活動とボートレースの普及への尽力

引退後も植木通彦の挑戦は終わりませんでした。

2008年、彼はボートレース殿堂入りを果たし、また一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就任します。

さらに2012年からはやまと競艇学校(現ボートレーサー養成所)の校長として、新人レーサーの育成に携わり、その後2018年にはボートレースアンバサダーに就任。

現在もボートレースの普及活動に積極的に関わり、YouTube番組などを通じて、ファンや次世代の選手たちに競艇の魅力や技術を伝え続けています。

生涯成績とボートレース界での功績

植木通彦の競艇人生は20年8ヶ月にわたります。

獲得したSGタイトルは10回、生涯賞金額は22億6,186万円に達し、その額は歴代ランキングの中でトップクラス。

彼が不死鳥としての異名を得た背景には、決して屈しない強い意志と、競艇というスポーツに対する純粋な情熱がありました。

もし50歳まで現役を続けていたならば、賞金額は30億円を超えていたかもしれません。

順位選手名生涯獲得賞金
1位松井繁40億7300万円
2位今村豊29億4144万円
3位今垣光太郎26億2350万円
4位山崎智也25億9690万円
5位瓜生正義25億8840万円
6位濱野谷憲吾24億7630万円
7位太田和美23億2613万円
8位植木通彦22億6186万円
9位田中信一郎21億6530万円
10位池田浩二21億3755万円

現役時代の平均年収は1億円を超え、当時の平均年収の約7倍という驚異的な収入を得ていましたが、それも彼の実力あってのものです。

競艇界を引退した今も、彼の功績と伝説は色あせることなく、次世代に語り継がれています。

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まとめ ― 植木通彦、今もなお輝き続けるレジェンド

植木通彦の人生は、幾度もの逆境と挑戦に満ちたものでした。

競艇選手としての誇りを胸に、常に全力で走り続けた彼は、今もなお競艇ファンに愛され、多くの選手に尊敬されています。

不死鳥と呼ばれるにふさわしいその強靭な精神と、競艇というスポーツへの情熱を忘れずに、彼はこれからも競艇界の未来を見据え、後進の育成やボートレースの普及に尽力し続けていくでしょう。

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